「『そこそこ』を超えて、道を極めるために」
道場では「とにかくこれだけは誰にも負けないものを見つけなさい!」と繰り返し伝えている。しかし、そのメッセージをしっかり受け止めている生徒は非常に少ない。なぜだろうか?その答えは意外にも単純で、「そこそこ」で満足しているからだ。この「そこそこ」という状態は非常にクセがあり、多くの門下生がその状態にどっぷり浸かり、その居心地の良さを感じている。私は何度も「いい加減、目を覚ませ!生き方を根本から改めろ!」と言ってきた。しかし、その場ではみんなしっかりと聞くものの、すぐに忘れてしまう。
世界的にAIの導入が進み、労働市場が大きく変わろうとしている。誰でもできることはもちろん、そこそこ出来る人材すら今後は生き残るのが困難になるのは見えている。秀でたものを持たない者は、行き場所がなくなってしまうということだ。どうしても働きたいのであれば、最低賃金で働くことを受け入れるしかない。これは脅しでも何でもなく、現実だ。今の高校生が社会に出る頃には、確実にこうなっているだろう。だからこそ、今のうちに道を極めなさい!と私は言っているのだ。

今のお父さんたちの経験則は、ほとんど意味をなさない。もし意味があるとすれば、それは「お父さんたちと同じ道を歩むべきではない」ということだ。ただし、最高学府である「東大」や「京大」に入れるのであれば、その道を進むべきだ。これは、学問の道を極める意味で間違っていない。しかし、酷なこと言うようだが、東大でさえ、世界大学ランキングでは28位に過ぎない。世界相手に本当に学問の道を極めるのであれば、1位のMIT(マサチューセッツ工科大学)か、2位のハーバード大学を目指すべきだ。
しかし、今の日本の優秀な子どもたちは「早稲田に入れれば良い」「青学に入れれば良い」といったレベルの意識にとどまっている。決して早稲田や青学が悪いわけではないが、時代の流れを読み取ることが重要だ。かつては早稲田や青学で問題はなかったが、今やこれらの大学を卒業しても、企業が求める人材にはならない場合が多い。企業もグローバル化しており、大学卒業が非常に難しい欧米の大学生と、入学と同時に目標を達成してしまう日本の大学生では、その質に大きな違いがある。日本の大学は国際化が進んでいないため、どうしてもコミュニケーション能力で欧米の大学生に劣る(私は20年以上ヨーロッパに住んでこの辺りの危機感を肌で実感している)。
では、日本の学生を採用する際、企業は何を基準に選ぶのか?それはその人の「個性」である。「優しい」とか「忍耐強い」といった性格的なものではなく、他の人が持っていない飛び抜けた「何か」(スキル)を持っているかどうかだ。その「何か」を持たない者は、何度採用試験を受けても採用されない。ザルを思い浮かべてほしい。ザルの穴より小さい粒(他人と違ったものを持っていない)は何度すくっても穴からこぼれ落ちる。しかし、ザルの穴より大きい粒(他と違ったものを持っている)は何度すくわれてもザルに残り、こぼれ落ちることはない。
こんな簡単なことを、何社も採用試験を受けて落ち続けている人は早く気づくべきだ。自分が粒を大きくしてこなかったことに全責任があり、採用しない企業に「俺を見る目がない!」と言っている者は、愚かなことにほかならない。粒が小さいのだから、自分の粒がどれだけ小さいかを冷静に受け止め、ランクを下げてでもそれを自覚すべきだ。
空手を教えている中で感じるのは、入門当初は非常に真剣に取り組んでいた子が、上級者になるにつれてその真剣さがだんだん薄れていくことだ。これは「そこそこ」空手ができるようになったことが原因だ。「そこそこ」に慣れてしまうと、「道を極める」ことが非常に難しくなる。
「そこそこ」は現状に満足することだが、「道を極める」とは、実はゴールがないからこそ続けることだ。「道を極める」努力をしている人の口癖は、常に「まだまだ」である。もし、「●●君、すごいね」と言われた時に「まーね」と返しているのであれば、それは器が小さい証拠だ。
「そこそこ」で満足することは危険だ。満足してしまうと、「粒」は決して大きくならない。